Orange County Buddhist Church

阿弥陀如来のひかりに照らされて

 

    (あき)になれば、中秋(ちゅうしゅう)名月(めいげつ)。 満月(まんげつ)年間通(ねんかんとお)して十二(じゅうに)ないし十三回(じゅうさんかい)あるようですが、なぜかこの中秋(ちゅうしゅう)名月(めいげつ)特別扱(とくべつあつか)いされて、(むかし)から(はち)(がつ)(じゅう)()(にち)(つき)は「中秋(ちゅうしゅう)名月(めいげつ)」と()ばれています。

    今年(ことし)のこの中秋(ちゅうしゅう)名月(めいげつ)九月十四日(くがつじゅうよっか)でした。(わたし)は、ラッキーにもこの(まん)(げつ)()ることができました。(おお)きく、黄色(きいろ)(ひがし)(そら)()かぶ(つき)()せられて、(おも)わず裏庭(うらにわ)まで()見上(みあ)げて()ました。ウサギさんが()えるかな・・なんて(おも)いながら、(ちい)さい(ころ)祖母(そぼ)一緒(いっしょ)に、ススキを(かざ)ってアンコで(つく)った月見団子(つきみだんご)()べたことを(おも)()します。

    (おお)きくて黄色(きいろ)いお(つき)さま、(いま)では(よる)でも(いた)るところにライトがあって(あか)るいですが、数百年(すうひゃくねん)まえには、(つき)(ひかり)闇夜(やみよ)()らすたったひとつの(ひかり)だったのでしょう。

    親鸞聖人(しんらんしょうにん)先生(せんせい)であった法然上人(ほうねんしょうにん)は、このような(つき)(なが)めながら、(つぎ)のようなお(うた)()まれています。

        月影(つきかげ)の いたらぬ(さと)はなけれども

        (なが)むる(ひと)の (こころ)にぞすむ

     (つき)(ひかり)(とど)かない人里(ひとざと)などありません。(ひかり)、すなわち阿弥陀如来(あみだにょらい)(すく)いのひかりはすべての(さと)(とど)くのですが、そのひかりに()づかない(ひと)には(つき)存在(そんざい)しないのと(おな)じことです。ですから、阿弥陀如来(あみだにょらい)のすべての(ひと)()らさず(すく)うというお(ちか)い(本願(ほんがん))のおこころに、どうか目覚(めざ)めてください。 ()()わせて「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とお念仏(ねんぶつ)(たた)える(ひと)のみが阿弥陀如来(あみだにょらい)(すく)いをこうむることができると、このお(うた)において(かた)られています。

    法然上人(ほうねんしょうにん)親鸞聖人(しんらんしょうにん)()きられた()(だい)は、鎌倉時代幕開(かまくらじだいまくあ)けのころで、政権(せいけん)(あらそ)内乱(ないらん)相次(あいつ)ぎ、地震(じしん)洪水(こうずい)など自然災害(しぜんさいがい)にも見舞(みま)われ、飢餓(きが)(えき)(びょう)がはびこるような、当時(とうじ)(ひと)たちにとっては不安(ふあん)混乱(こんらん)時代(じだい)でした。そのような(きび)しい時代背景(じだいはいけい)のなかで、法然上人(ほうねんしょうにん)親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、それまでの貴族(きぞく)のための仏教(ぶっきょう)から、民衆(みんしゅう)武士(ぶし)(ふく)めたすべての衆生(しゅじょう)(すく)()るという阿弥陀如来(あみだにょらい)本願(ほんがん)によって、お(ねん)(ぶつ)ひとつで往生(おうじょう)できる浄土教(じょうどきょう)(おし)えを()かれました。

    中秋(ちゅうしゅう)名月(めいげつ)(ひかり)()びながら、いつも阿弥陀如来(あみだにょらい)本願(ほんがん)のなかで()かされている自分(じぶん)なのに、そのことに()がついているでしょうか。すべての(しゅ)(じょう)(すく)()るという如来(にょらい)本願(ほんがん)のなかに、ともに()かされて、お念仏(ねんぶつ)ができる()にならせてもらったことは、まさに不思議(ふしぎ)なことではありませんか。

    不思議(ふしぎ)なこと・・・ しかし、この()人間(にんげん)として()まれてきた理由(りゆう)(かんが)えるとき、それは不思議(ふしぎ)ではなく必然(ひつぜん)かもしれません。お念仏(ねんぶつ)()()()()()(ぶつ)にめぐり()うために()まれてきたと(おも)えば、この()でいのちがある(あいだ)如来(にょらい)のご本願(ほんがん)を、しっかり()かせてもらわなければいけません。如来(にょらい)のみひかりのなかで、()かされている自分(じぶん)目覚(めざ)めなければ、折角(せっかく)いただいた、このいのちを粗末(そまつ)にすることになります。

    真宗(しんしゅう)(まな)ぶということは、自分(じぶん)(げん)(じつ)姿(すがた)(ふか)くかえりみて、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)にして永久(えいきゅう)不実(ふじつ)(きょ)(もう)世界(せかい)から(のが)れられないこの(わたし)のために、如来(にょらい)()()がってくださり、つねに念仏(ねんぶつ)(もう)して()きることによって、この(わたし)はいつもその(おお)きな慈悲(じひ)(つつ)まれているということに信知(しんち)することではないでしょうか。

    如来(にょらい)のみひかりに目覚(めざ)めるのは自分(じぶん)であるとされた法然上人(ほうねんしょうにん)のみ(おし)えは、宗祖親鸞聖人(しゅうそしんらんしょうにん)に、しっかりと()()がれていったのです。

                                                                    南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)

                                                ワンドラ 睦  (釈 清香 (しょうこう)

 

October 2008

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