Orange County Buddhist Church

 

無常(むじょう)から永遠(えいえん)

    仏教(ぶっきょう)(おし)えは一般的(いっぱんてき)に「(くら)い」「()(じょう)(てき)」「死後(しご)のこと」が(おお)いといわれます。それは釈尊(しゃくそん)初転法輪(しょてんほうりん)(さと)()一番最初(いちばんさいしょ)のご説法(せっぽう)(えん)()(せつ)をはじめ「(しょう)(ろう)(びょう)()」の四苦八苦(しくはっく)から(おし)えが(はじ)まったからでしょうか?

    (わたし)はここに、お釈迦(しゃか)さまがお()きくださいました「八正道(はっしょうどう)」の第一(だいいち)(かか)げられます「正見(しょうけん)」すなわち、(すべ)てのものの真実(しんじつ)()よ!と()うご説法(せっぽう)(こころ)したいと(おも)います。

    この「正見(しょうけん)」という(おし)えは、浄土教(じょうどきょう)においては(もっと)大切(たいせつ)なものの(ひと)つだと(おも)います。なぜならば、現実(げんじつ)のこの人生(じんせい)をはなれての教理(きょうり)ではないことを(しめ)しているからです。

     「()えなば()ゆ つゆの(いのち)は 

    まぼろしの はかなきがゆえ 

    なつかしきかも」

 

    この()作者(さくしゃ)不明(ふめい)ですが、この()(おし)えているものは、(わたし)たちの人生(じんせい)は、(ほん)(とう)にはかない(つゆ)のようなもである。しかし、その人生無常(じんせいむじょう)のなかにこそ「なつかしむ」とは、そこから真実(しんじつ)のもの、永遠(えいえん)のものが()えてくるのだと、(わたし)解釈(かいしゃく)をいたしました。

 

    (わたし)は、わたしの(いのち)をどう(ただ)しく()ることができるのか? (たと)えば、(わたし)にも「()」は(かなら)ずやってきます。

    ()」とは、(すべ)てのこの()のものに(わか)れを()げなければならないのです。すなわち、この()のものは(すべ)てが当てにならないということです。この()という現実(げんじつ)におこる(かな)しみ、(くる)しみをどう()()えていくのかが、お念仏(ねんぶつ)のみ(おし)えであります。

    宗祖親鸞聖人(しゅうそしんらんしょうにん)京都(きょうと)での比叡山(ひえいざん)()(じゅう)(ねん)(かん)のご苦労(くろう)は、(つね)に「生死(しょうじ)いずべき(みち)」すなわち、()という無常(むじょう)解決(かいけつ)は、永遠(えいえん)真実(しんじつ)であり(ほとけ)誓願(せいがん)にありと(かく)(しん)をもたれたのあります。

    浄土三部経(じょうどさんぶきょう)(おし)えは「生死(しょうじ)」の問題(もんだい)()きあかそうとされたものであり、その解決(かいけつ)は「(ただ)(ねん)(ぶつ)」という信心(しんじん)をいただくことが(じょう)()(しん)(しゅう)()えましょう。

    すれば、お釈迦(しゃか)さまがお()きになられました「(ほとけ)(おし)え」、仏教(ぶっきょう)(けっ)して(くら)いものではなく、むしろ(あか)るい未来(みらい)()らすものであります。

                                                                           合掌    宮地

 Sept. 2008

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