Orange County Buddhist Church
一如の世界
今年は、気候が世界的に不順であると聞きます。この夏、フランスでは四〇度(華氏一〇五度)を越える猛暑となり、多くのお年寄りが亡くなられています。日本でも台風が本土をおそい大雨や土砂崩れで多くの方が被害にあわれ、また東日本では冷夏となり農家の方々に大変な影響を及ぼしていると聞いております。またニューヨークからカナダにまたがる大停電で市民があじわった暗闇での恐怖は人ごとではありません。この他にも世界のあちこちで天災は恐ろしさを見せつけています。
人間は月や火星にロケットを飛ばすことが出来ますが、〈自然の起こり〉の前には手も足も出ないことを今、改めて教えられます。
私たちは、今もう一度静かに自然の理に目を向けて人間の傲慢さ・科学依存主義に反省する時が来ているように思われます。
私たち仏教徒には、お彼岸という大法要があります。春にしろ、秋にしろこのお彼岸の時季に〈自然と私〉という大切な命の根本を尋ねるチャンスに恵まれています。
八月は、私にとりまして何となく一番ゆっくりとすごせる時でもあり、愚妻とともに先日、何をするともなくハンティントンビーチに出掛けました。空は雲一つない青空で、海はしずかにギラギラと太陽を受けていました。日中にもかかわらず、時より吹く風は少し肌寒く感じられ秋は海からもやって来るようでした。
こうした澄みきった空と海とを眺めていますと私の頭の中に浮かんできたのは、次の詩でありました。
秋は高くして、
秋水に秋空を見る
誠にしる
従来天地の同じき事を用いず
此時俯仰を労する事を
鳶は飛び、
魚は躍る一池の中
これは、伏見深草(京都)の元政上人の詩であります。
〝水を見ていると、そのままが鳶の飛んでいる空であり、空か水か、天か地か区別出来ない。
天地が別なら、天は仰いで見なければならない。地は俯して見なければならない。
しかし、今やこの風光は天地が一つである。空飛ぶ鳶が池の中に舞、池の中の魚がそのまま雲の中に躍っている。
空と水、鳶と魚がどこまでも二つでありながら、それが一つになっている。
それなら一つかと言えば、それはそのまま二つである。〟
という意味の詩であります。
私が眺めていた太平洋の海と遠く広がる青空は、どこまでが空でどこまでが海かが区別出来ず、この詩では鳶でありますが、私はかもめが遠く飛んでいるのか、海の上にいるのかが判断できかねたのです。
この事を仏教では「二而不二」として教えます。
「二而不二」とは、二つの違ったものが一つになる世界のことです。同体に成ることではないのです。
二つのものが調和してしまう世界、すなわち一如の世界を表現した言葉であります。この世界を仏教では『悟り』とも言い『信心』ともいうのです。
特に浄土真宗では「二而不二」を「機法一体」とあじわいます。
機とは、人間のことであり凡夫を指します。法は、仏さまの側を指します。この二つの違ったものが一体になる世界を「機法一体」といいます。
仏さまは広大な青空であります。そこに飛んでいるカモメは海の中にも飛んでいるようにも見えます。カモメは名号、すなわち南無阿弥陀仏であります。
空のもの(仏さまのもの)であるカモメは、海のもの(衆生のもの)として自由に飛び交うことができるのです。
この「機法一体」の教えは、仏教の大きな特徴といえましょう。
他の宗教では天は神であり、地は人間であります。地の者は天を仰がなければならず、地の者は決して天と一体、または同体となる事は許されません。人間はたとえ天国に召されても、神そのものに成ることは出来ないのです。
私たちは、この仏教の大きな世界・自由なる世界・差別(天と地)のない世界にご縁があることに感謝しなければなりません。
私たちが仏さまを仰ぐとき、そこに私の苦しみ・悩みの全体をかかえて立ち給う阿弥陀如来さまのお姿は、この私と「一体」・「二而不二」・「機法一体」と成って下さっておられるのです。
カリフォルニアのどこまでも澄み切った青空と紺碧の太平洋の海が沖で互いにとけ合い、空と海の境を越えた水平線にかもめがゆっくり飛んでいる景色を眺めながら、今月号の光輪のお話はこれだと決めて帰路につきました。
合 掌 宮 地
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