Orange County Buddhist Church
さらさら と
以前に読んだ「信仰」の四月号に、山田無文禅師のご法話が巌教也先生によって紹介されたのを読ませていただき、深く感銘を受けたのでここに紹介せていただきます。
『水のごとくよどみなく、さらさらと流れたい。どんな良いことがあっても、どんな悪いことがあってもうしろをふり向かず、前へ前へさらさら流れたい。
左右の岸にどんな美しい花が咲いておっても、どんなに楽しく小鳥が鳴いても、その美しさをほめながらその楽しさをよろこびながら、足ぶみせず流れよう。
流れる水は凍らぬとか、流れる水は腐らぬとか、それが生きておるということであろう。田畑をうるおし草木を養い、魚を育てながら決して高きを望まず低い方へ低い方へと水の流れの如くわたしも流れたい』
この一節は、飾り気がなく淡々としている故に、すぐについて行けそうですが、自己をふり返ってみるとなかなかこの水の流れの如くさらさらと行けないものです。
しかし、かと言ってこの文の心を通り過ぎるだけではいけない「教え」があるのです。
私なりに、この山田師の文章を次ぎのように味わい、出来れば人生の手本としたいのです。
まず、無文師の言う「水の流れ」は人生であり、「さらさらと流れたい」とは邪見と執着のないことである。
「どんな良いことがあっても・・・」とは少しラッキーだったり、良いことがあっても慢心することなく、人さまの幸福を心の底から喜び、妬みがなくなることであろう。
「左右の岸にどんなに美しい花が咲いておっても・・・」とは私たちはいつもあれも欲しい、これも欲しいの連続であるが他人さまの美しい名誉・愛・健康・美などのをほめながら喜びながら、「足ぶみせず」とは、捕らわれることなく流れようと言うのである。
「流れる水は凍らぬとか、流れる水は腐らぬとか・・・」とは、三毒の煩悩(貧・瞋・痴)に浸ることを出来るだけいましめていく人生、明るい暖かい人生のことである。
「田畑をうるおし‥‥」の解釈は、俺がした、私のおかげでと恩きせがましくないことである。高慢で思い上がりを戒しめておられるのですし。
水は無言で草木を養い、水は唯そのままで魚の命となっている。
ある人は、水はものを云わないからとへりくつを云う人もいるかも知れませんが、宗祖親鸞聖人は「自然法爾」として念仏者に教えて下さっています。
「自然法爾」とは、すなわち〈はからいのない〉人生をいうのです。
はからいのない生き方をせよ、と云われますと何か本能のままに自分勝手な生き方と思う人もいるかも知れませんが、はからいがないと言うことは自分を誇張しない、出来るだけ他を評価しない生き方を云うのであります。
山田無文師は、人生をこの水のように「さらさら と」生きたいと念願されておられたのです。
仏教徒として生きていくうえの一つの見本を私たちに示して下さったように思います。
合掌 宮地