Orange County Buddhist Church

        法蔵菩薩

法蔵菩薩は、生死海の中であらゆる苦悩を知り、世自在王仏という先の仏を師といただき、全ての人が救われるようにと願ってさまざまな道をたづねられたのです。

人は理屈や、指図だけで救われるものではありません。本当にその人の身になり、その人の苦悩の根本を取り除くように働くことが大切なのです。

私が子供の頃、高知の田舎で近所の友達と遊んでいた時のある小さな出来事でありましたが、今でもその時の事がこの胸に焼き付いて残っております。

その出来事は、私の友達の一人に、小児麻痺の為に体が不自由な子がいました。彼は片目・片足で、知能もどう見ても人並みとは思えませんでした。彼は私たち五、六人の悪たれ小僧といつも一緒に遊んでいました。

ある日、その子が何が原因だったか忘れましたが二、三人の悪い子供達にあざけられ、片目・片足を笑われ、子供なりのひどい言葉をあびせられました。

体の不自由な子供は、その場でうずくまって泣き出しました。その時、この子の母親が子供の泣き声を聞いて飛んで来て「皆は、ひとの子を面白がってなぶるかも知らんが、この子は大切な私の子供なんだよ」と、まだうら若い母親でしたが、地面の上に恥も、何もうち忘れて倒れ、うずくまっている我が子をかばって言いました。

そして、その母親は子供を起こし、抱きかかえるようにして家に帰って行きました…。何故か私まで泣いていた事を憶えています。

親は、子の為にどれ程泣いているかも知れません。今、思えば私が涙したのは親と子とが一緒に地に伏して泣いている姿に心打たれるものがあったからなのでしょう。

親になるとは、親は我が子の心になり、我が子の身体と一つになって苦楽を共にして、初めて親と言えましょう。子供を産むだけが親ではないように思うのです。

この出来事が起こった時には、他の親たちも出てきましたが「喧嘩はいけんよ」の一言だった事も、今でも忘れられません。

仏さまと私との関係は、丁度その子と母親のように、何ものも入り込む余地のない「一如」の心で結ばれているのです。

阿弥陀仏が、もと法蔵菩薩として生死の苦海に身を沈めて下されたからこそ、私たちの救くわれる道が開かれたのです。

そうではなく、ただ遠く彼方から理屈や指図だけされる仏様であったら、到底私たちは救われません。

さて、もう一度先に述べた〈出来事〉を考えてみて下さい。

いじめられて泣いている子供は、衆生であり、私なのです。

仏様の所へ修行を積んで走って行ける心も身体も持っておりません。罪悪深重の私であります。

子供の泣き声は、丁度私たちの念仏と言ってもよいでしょう。この泣き声の奥には、親の愛がすでに働いているのです。親は、その泣き声と共に現れて、子供と一緒に地に伏しました。

阿弥陀仏が、法蔵菩薩のお姿となって私たち衆生の前に現れて下さったのと同じなのです。

お念仏を称えると言うこのは、阿弥陀如来様が、「この子は、私の子です」と言っておられる働きなのです。

母親が、その子を抱きかかえるようにして家に帰った、それは私たちの臨終の時には、一人ではなく『親さま』と一緒に家(浄土)に帰れるということなのです。

                合掌   宮 地

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