Orange County Buddhist Church

人間の根本苦

病院には「人生の縮図」がある。ある病棟では成人病の患者さんがいる。隣の病棟では老人があらゆる病気をかかえている。こちらの病棟はおそらく産婦人科だろう、生まれたばかりの赤ん坊の声がする。病院は人生の縮図を教えてくれる。

小さい子供が手術室に入って行く姿はこの上もなく悲しみを感じる。小児科の病棟で、小さい子供達が精一杯病気と闘っている姿を見ると思わず「がんばれよ」と声をかけたくなる。小さな命が重い病気と全身で闘っているすがたは言葉に表せないやるせなさを感じる。おそらくその子の友達は元気で遊んでいるだろう、何か美味しいオヤツでも食べているだろう。しかし病院のベッドで病気と闘っている子供達は何故皆と同じように友達と遊べないのか、何故美味しい物が食べられないのか、この子達が何か悪いことをしたのかと、私は怒りを感じるのである。

そんな子供達に、それはおまえの業だよと言えるだろうか、言えるとしたらそれは悪魔であろう。

では私は病気と闘っている子供達に(子供と限らない)一体何が出来るのであろう。色々な面でヘルプが出来るだろうが、私はそれらしい理由をつけてヘルプをしようとはしない。私はそこで自己の「限界」を知らされ、いつもその場から逃げ出すのである。

健康に恵まれた人間が時には「私はもうこんな世の中はいやになった、早く死にたい」と言う。又ある人は「夢も希望も無くなった、死んでやる」と言う。私はこんな人達に今、赤ちゃんの小さい命が病院で重い病気と闘っている姿を見なさいよと言いたい。又こんなことを云う人ほど、自分の身体が少し具合が悪くなれば癌では無いだろうか、ストロークに襲われるのではないだろうかと心配すのはなぜだろう。

多くの人達が尊い「命」と闘っていることを私は常に心においておくことが大切だと思う。

人生は無常である。私たちは何時かは、必ず死んでいかなければならない。死はこの世の全てのものを失うということある。それは私たちにとっては恐怖である。   

中川静村さんという方が次のような詩を書いておられる。

 「死ぬのにいい年はない 

    死ぬのにいい日はない

  いくつになろうと

    この身 このまま

  ここでこうして生きたい

    生きたい」

我々は「死」ということを不吉に思い、死に不安・悲しみ・恐怖を感じる。故に我々は死を考えようとしない。それを語ろうともしない、何故なら恐ろしくて、陰気だからである。

仏教はこの自己の死を考えるところから始まると云っても良いのである。

何故なら「死」は真実であり、生きとし生けるものは、この「死」から逃れられないからである。

仏教はここをごまかさず、死は人間の根本苦と見るからである。仏教はこの「死」の問題を解決するものと言っても過言ではないと思うのである。

しかし我々は死を考えることを嫌うが、老後の準備として生命保険等は考える。私がここで言いたいのはそんな物質的なものではなく、精神的なものである。

親鸞聖人は京都の比叡山で約二十年間と言う永い間、学問と修行を積まれた。聖人のその目的は「生死いずべく道」すなわち死の精神的解決、死という心の苦をも解決し、永遠の生命とは何かを見さだめられたのである。

人間は肉体的・精神的にこの死の問題に直面した時、仏教のみ教えの門が開かれ、答えがそこにあることに気づく。仏教は諸行無常を教える。中川氏は、「この身 このままで こうして生きたい 生きたい」と叫ばれたが、人生無情である。

人間が避けることの出来ないこの死の根本苦を解決してくれるものは何であろう。財力・経験・学問・名誉・地位・友達・家族・科学・医学これらの一体どれが己の死の問題を解決してくれるだろうか。

我々がこうしたことを考えるとき一つのことに気づく。そうだ仏教の教えは、この死の問題を解決するために、釈尊は二五〇〇年前に「仏法」を説きあかされたのである。もちろん仏法は「死」の問題だけをあきらかにしたものではないが、死の問題は人間の根本苦であることは事実である。

無常あるいは死と相談すると、仏教の一言一言が金言と輝いてくる。お念仏が私と阿弥陀さまとを結ぶものであったと領解するには「聴聞」しかないことがわかるであろう。

仏教会にお参りするのは決して他人の為ではない。己の死の解決の為の聴聞である。この聴聞をさせていただく「場」が仏教会である。

しかし残念ながら仏教会に参らない人は次のような理由を言われる。

一、まだ歳が若いから・・

一、どうも忙そがしくて・・

一、参らなければいけないほど悪いことをしていない。

一、しっかり働かなければいけないのにお寺まで・・

一、何の利益もないから

一、つき合いがうるさいから

一、余分なお金がいるから

一、おもしろいところではないから・・

一、お経や線香がどうも性にあわん。

一、説教が難しくてわからない。

一、あまりメンバーが相手にしてくれない。

一、開教使が好かん。

一、その他・・

このような理由でお参りをしない人が多いようである。

しかしよくよく考えて下さい。必ずやってくる貴方の死のことを・・・

キリスト教ではこのように教会に行かない人を敗者と取り扱い、取り残された命、魂と呼ぶのです。

貴方も必ず死にますよ、浄土に行く道は開けていますか。それとも一人淋しく輪廻に迷い続けるか、今の貴方の人生で決まるのです。

仏教会にお参りして「聴聞」させていただきましょう。

合掌           宮地


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