Orange County Buddhist Church

「言葉を大切に」より

京都西本願寺より出版されています「大乗」という雑誌の九月号に、〈みほとけとともに〉という題で、熊本の高千穂正史先生が「言葉を大切に」という章で、私たちがお葬式の時などでよく耳にします、「お迎え」・「大往生」・「永眠」についてお書きになっておられます。

私たちに大変参考になると思いますので、ご紹介させていただきます。

先ず、「お迎え」についてであります。ご高齢の方に「元気ですね」と声をかけますと、「まだ、お迎えがありませんから‥」とよく答えられます。

このお迎えのことを臨終来迎と申します。いのち終わる時、お浄土から仏様がお迎えに来て下さるという意味です。

そのことについて、親鸞聖人は
「浄土真宗では、臨終来迎ということは全く考えなくてよいのだよ」と述べておられます。

なぜなら、私たちは何時、何処で、どのようにしていのちを終わろうとも、間違いなくお浄土に生まれ、仏と成らせて頂く身に、今ここでならせて頂いているからであります。

これは、浄土真宗の大切な教えのひとつでもあります。

高千穂先生は、「大乗」の雑誌に次のように書いて下さっておられます。

四十八願の中心であります第十八願は、『至心信楽欲生我国』であり、信心正因のことであります。

この第十八願は、仏様の願いです。すなわち、今ここで必ずお浄土に生まれさせて頂く約束(誓願)が出来ておりますから、臨終にお迎えは要らないのです。

次に、「大往生」です。

高千穂先生は、次のように続けて書いておられます。

一般には、長寿で安らかにいのち終えられた時、「大往生された」と云っているようですが私たち浄土真宗の教えを頂ている者は、全ての人が大往生なのです。

親鸞聖人は、いのち終わる時の様子について「その善し悪しは問わない」とおおせになりました。いのちの終わり方によって往生が定まるのではありません。 中略 長寿は誰もが願うことであります。

しかし、このことは私たちの思い通りにはなりません。若くていのち終わることもあり、苦しみながら最後を迎える場合もあります。しかし、仏様は『どうなろうと、間違わぬぞ』とのお誓いの中にあるのですから何の心配もいりません。

『歎異抄』には、
[弥陀の本願には、老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にまします]とあります。

ですから、第十八願のお念仏をさせて頂く私たちは、全て「大往生」疑うこと無しです。

第三番目の「永眠」または、「安らかにお眠り下さい」ということについては、高千穂先生は次のように書かれています。

これも、私たちは新聞の死亡通知や弔辞などでよく耳にします。しかし、浄土真宗の教えに生かされる者は、この世のいのちが終わって、永久の眠りに入るのではありません。お浄土に往生して、み仏のいのちと成らせて頂くのです。

永眠ではなく、永生であります。

また、仏さまは忙しいのです。眠っている暇はありません。私たちをお導き下さるために、全くお休みなく働き続けて下さっているのであります。それゆえに、永眠ではなく往生と言わなければなりません。

 中略 弔辞でも「お浄土に往生されたことをお讃えし、み仏様となられて、お休みなく私たちをお導き下さることを念願申し上げます」と述べるべきであります。

と高千穂先生は、教えて下さっています。

親鸞聖人は、『教行信証』の総標の文に「謹んで浄土真宗を按ずるに二種の廻向あり、一つは往相、二つは還相なり」と説いておられます。

私たちは、お浄土に生させていただき、南無阿弥陀仏となってり、お念仏をそして仏法を弘めるお仕事があるのです。

そうです、眠ってはいけないと思うのであります。

今月は、雑誌「大乗」より、高千穂先生のお話を参考にさせて頂き、「お迎え」・「大往生」・「永眠」について学ばせていただきました。

                 合掌   宮 地

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