Orange County Buddhist Church

松 若 丸

    明日ありと
    思ふ心のあだ桜
      夜半にあらしの
    ふかぬものかは

  これは、宗祖親鸞聖人が京都東山にある青蓮院で得度(僧侶になるおかみそり式)された時に詠まれたものと伝えられています。

すなわち治承五年(一一八一年)、聖人九歳の春でありました。

今月号は、聖人が何故わずか九歳で出家しなければならなったか、またその時どうしてこの“明日ありと…”の歌を詠まれたかについて、お話させていただきたいと思います。

聖人の出家説は、歴史家や学者の方々によっていろいろと違った説が出ておりますが、やはり治承(一一七七年)を私はとります。何故ならばそれは、当時は仏教でいう末法の時代(仏教の教法が衰微する時代)に入る年でもあったからなのです。

当時人々は、末法の時代に入ったという恐れと失望感で、現世を否定・無常観・厭世感という不安がいつもつきまとっていたのです。

そして、治承元年というと、源頼朝・木曽義仲らが兵を挙げ戦乱の時代まっただ中に入るのです。

また、天変地異が続き、大凶作・飢饉におそわれた京都は、病が大流行し餓死者が続出、巷には四万二千人の死体がころがっていたと「方丈記」に書き残されています。

また、大火が続々と起こり皇居八条殿は放火され、全焼したと歴史は伝えています。

こういった混乱の時代、仏教界はどうであったかといえば僧侶は権力にこびへつらい、祈りや、まじないに憂き身をやつしていたのです。この様な混乱の時代に親鸞聖人は、ご誕生になられたのです。

聖人の父君は、日野有範であり、皇太后大進の位であられました。この位は、貴族の中でも中より少し下の位であり、当時貴族そのものが落ち目であったので大進の位といっても生活は苦しい方でありました。

父君が早くに引退され、入道となられ隠遁生活に入られたので、ご家族は離散されたようです。

聖人の幼少はそのような家庭的事情もあり、九歳の時にお寺にあずけられることになったのです。

そして、松若丸の四人の弟君も次々と入寺していかれたのです。

父君、母君との早くの離別そして、時代の混乱の中でお生まれになった聖人は、子供心に諸行無常を感じとられていたに違いありません。またご家族から別れ出家された時のご心境は、お察しするものがあります。

聖人のご幼少の頃のお名前は、松若丸と名乗っておられました。

ご出家の時は、伯父君に連れられて天台宗のお寺、青蓮院の門をくぐられ僧侶に成るための仏道入門ための得度式を願われたのです。しかし、青蓮院の門をくぐられたのは夕刻遅くでした。青蓮院の僧は、松若丸に「今日はもう遅いから明日においでなさい」と云われました。その時、松若丸は

  明日ありと思ふ心のあだ桜
    夜半にあらしのふかぬものかは

“今この青蓮院の庭にも桜の花が満開ですが、今夜の嵐で桜の花は散ってしまうかもしれません。(諸行無常)どうか、今すぐ私の心が桜の花のように咲いている時、仏道入門をお許し下さい。”と答えたと云うのです。松若丸の強い意志がうかがえるお話です。

出家得度をその日の夕方に無事すまされ松若丸は、法名を範宴と賜りました。

範宴は、やがて比叡山に登られ仏道修行と学問を二十年の間、命がけで励まれたのであります。

聖人がご生誕下さったが故に、八百年後の私達もお念仏の正しいみ教えに遇わせていただくことができたのです。

でなければ、この罪悪深重の凡夫が救われていく道は、無かったのではないでしょうか

合掌 宮地

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