Orange County Buddhist Church
宗祖親鸞聖人降誕会
「藤まつり」によせて
今日、浄土真宗のみ教えは日本はもとよりハワイ・南米・カナダ・ヨーロッパそして全世界に広まりつつあります。特に今日、英国を中心とするヨーロッパへの広がりは、注目されるものがあります。
この我々が信じさせていただいているお念仏のみ教えは、今から約八〇〇年前宗祖親鸞聖人によって起こされたものでありますが、聖人は自らを「愚禿」と名付けられたのです。
聖人のごとき高僧がなぜ「愚禿」と名のられたのでありましょう。
聖人は九才の時、得度(出家の儀式)を受けられ、そのまま京都比叡山にある天台宗に入られました。そして二十年間学問修行に励まれました。しかし聖人は「いずれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)
私はいくら学問を積んでも、修行をおさめても、身心清らかにならず、煩悩を断ち切ることが出来ませんと反省されたのであります。
聖人は二十九才の時、法然上人のもとで『雑行をすてて本願に帰す』(教行信証)
(阿弥陀如来さまの本願は凡夫を救うという)
お念仏のみ教えを信じて生きますと宣言されたのであります。
「愚」とは、是非も知らず邪正もわからない愚かな者という意味です。
「禿」とは、小慈・小悲もなけれども名利に人師を好むということですから、いたらない自分ということになるでしょう。
聖人は、さらに自らの深い反省として、『内は愚にして、外は賢なり』(私の外見や人さまに見せているところは優れ、慈悲があるように見えますが、心の中は餓鬼・畜生です)と述べておられます。
聖人は、法に照らした自己を正直に見られ、そこからこのような深い宗教的反省にたたれました。
聖人は越後で流罪の身となられた時、はっきりと「僧に非ず、俗に非ず」(私は僧でもなく、俗人でもない)と言われました。
非僧非俗とは、要するに、はからいのない自然な無理のない生き方を確立され、ただ念仏のみぞまことと全面的に喜んでいかれたお姿であります。
丁度、何の飾りもない純金やダイヤモンドがそのもの自体大きな価値があるように、本当に真実を仰いで生きている人は、自ら己の欠点・限界に気づきます。そしてそこから飾りのない人間らしい生き方に還ってきます。
故に、聖人は私たちに大悲の本願を仰ぎ、仏恩を疑うことなく頂き、喜び、敬信の人生があることを教えていって下さったのです。
裏を見せ 表を見せて
散るもみじ
良寛
この俳句のように恥ずかしいこと、見られたくないこと、人に知られたくない人生の部分にも仏さまの大慈・大悲がかかりづめであったことに気付かされるのです。
すれば、この私の人生全体が、仏さまと一つの一如の世界であり、裏も表もある堂々たる人生として生きて行けるのです。
浄土真宗のお流れを汲む私たちはお念仏に出会えたことを慶び、苦しい悩みの多いこの人生を力強く、明るく、希望をもって生きるという生活態度がここにあるのではないでしょうか。
親鸞聖人は、私たちに大切なお念仏のみ教えを残して行って下さったことに心からお礼を申し上げるのがこの「降誕会法要」の意味なのです。
合掌 宮地
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