Orange County Buddhist Church

孤独者と念仏

私たちの毎日は、家庭的に社会的にそれぞれ相寄って生活し、生きているのです。

しかし、一人の人間また単独者としての自己自身に眼を向けたとき、人はそれぞれ独りなのです。孤独であるといわねばなりません。

この事実は、例えば皆さまのご家族の誰かが重い病気になられたとします。もちろん、入院してお医者さまから出来る限りの治療を受け看病をしてもらいます。しかし、人は肉親を愛し病気をどれほど案じても、代わってあげる訳にはいきません。

病人は、病人の心の世界で病を病み苦しみます。

周りの人は、その人の心の世界で心配をし、苦しみます。

私はそうした時、人は孤独であると思わずにはいられません。

『大無量寿経』には、

「独り生まれ、独り死ぬ、独り去り、独り来る」と言う言葉があります。

-人は「われひとり」という世界に住んで、独り生まれ独り死んで行くのです。-

これは、私たちが日常で独りきりになりたいという〈甘え〉でもなく、今までに経験をしたことのない孤独なのです。

阿弥陀様は、そうした絶対の孤独に立つ私に “ 泣くな、案ずるな、何としても助けてやりたい救ってやりたい  ” と呼びかけておられるのです。

この呼び声に遇うのが浄土真宗なのです。

死を見つめるとき、自己の本当の姿を考えるとき、「孤独」である自分がはっきりと見極められてくるのです。

ここに立たされるという事は、絶望と恐怖の暗黒に落とされることなのです。

しかし、孤独と絶望に立たされたとき、初めて宗教の門が開かれるのです。

浄土真宗では念仏の声、すなわち“ 南無阿弥陀仏 ”に出遇える接点なのであります。

自己が「無」と「孤独」に出遇うとは即、如来の本願に出遇うということなのであります。

何のために、何処へ、死んだ後に行くのか、それを自らに問い、そうした問いの答えを得るとき、「信心」を得させて頂きましたと言い切ることが出来るのであります。

そこからの出発点は「絶望」から「希望」にかわり、「孤独」から如来さまと二人づれという「一如」の世界すなわち、光明と永遠なる命のなかに生かされる「私」に転じられるのです。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にありけるを、たすけんとおぼしめしたる本願のかたじけなさよと‥‥‥」

-阿弥陀さまの五劫という長い長い間、私たち人間の苦しみを救ってやりたいという仏の願いすなわち、本願をよくよく思ってみると、まったくこの私を目当てのお救いでした。-

親鸞さまは『歎異抄』の中で、「弥陀の本願は親鸞一人がため」と了解されました。

どうか皆さま、如来さまのお慈悲の中でありますということを常に心してください。

 仏を念ずる心は
   仏に念われている証である

合掌   宮 地

March 2007

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