Orange County Buddhist Church

女人五障(一)

 キリスト教・ヒンズー教その他の宗教で言う〈神〉は、男性像で表されています。

仏教などで言う〈仏〉も同じく男性像であります。もちろん、イエス・キリスト、釈迦、マホメット、孔子も男性であります。

キリスト教では、神は天地全てのものを創造されたと信じます。神が人間を創造される時、先ず男を創られまた、女は男の肋骨を一つ折ってその骨で“女 ”を創られたのです。つまり、女性は男性の肋骨の一つから創られたのであります。

カソリック教では、最近まで女性は牧師には成れなかったのです。

仏教でも、残念ながら男性優先の歴史があり、特に小乗仏教では、女性を厳しく区別してきたのです。もちろん、女性は僧侶には成れなかったのです(比丘尼の位置はこれに異なる)。

今でも、セイロン・タイ国に行けば女性は僧侶に言葉もかけてはいけないし、衣類などは決して触れてはいけないのです。

日本仏教もそういった女性観の悪い伝統を受け継いでいます。

明治頃までは、聖山(比叡山・高野山など)は、〈女人禁制〉であり、ご本山には近づくことも出来なかったのです。

今日の〈男女同権〉すなわち、平等の精神からいえばこういった信じられない男尊女卑のしきたりが、宗教界の中にあることは誠に残念なことです。

では、私たちの浄土真宗ではこの“女人 ”をどのように位置してきたかを、宗祖親鸞聖人のご精神に窺いますと『ご和讃』のなかに

  「願以此功徳 平等施一切
   同発菩提心 往生安楽国」

ですから、ここに一切の区別も差別のない世界(本願)なのです。

しかし、親鸞聖人はやはり当時の仏教の流れに心され、同じく『ご和讃』に

仏智の不思議をあらわして
変成男子の願をたて
女人成仏ちかいたり
とあります。対訳すれば、

仏さまのお慈悲に照らされて、女の方はお浄土で一度男に生まれ変わって、仏道を修し、あらためて成仏するのだよ。

私たちがお葬式をする際、女性の方が亡くなられた時はこの和讃をあげます。

男性の方のお葬式には、

  本願力にあいぬれば
  むなしくすぐる人ぞ無き
  功徳の宝海満ちみちて
  煩悩の濁水へだてなし

をあげるのです。これは、日本の浄土真宗のお寺でも、米国仏教団のお寺でもこの習慣にしたがっていました。しかし今日これは改められまして、お葬式の時、男でも女でも「本願力にあいぬれば…」をあげます。

では何故、世界の宗教が女性を特別扱いにしてきたのでしょう。

ここでは私の立場上、仏教がとってきた女人の観念を簡単に説明しておきましょう。(どうか誤解のないように、これは原始仏教から受け継がれてきた教義にもとづいて書いているのであって、私の考えは一切入っておりませんので…)

先ず、『法華経』のなかの【信解品】に書かれている〈女人五障〉に、すなわち女性が仏道・行が出来ない理由が五つ述べてあります。

①欺・②怠・③瞋・④恨・⑤怨の五つです。

①「欺」とは、信ずべきものが信じられないことであって例えば、父母も信じられない(信じられなかった)。時には自分の子供も信じられない。夫が・妻が信じられない。しいては仏法僧が信じられないということです。

ある人から「いいえ私は、他のことは信じられませんが、仏法僧は信じられます」とお叱りを受けるかも知れません。

しかし、〈信じる〉ということは〈敬う〉ということです。聖徳太子は、「篤く三宝を敬え」と教えて下さっています。

私たちは仏教会で例えば、何か気に入らないこがあれば “もう、仏教会には行ってやらない・行かない ” と一瞬でも思ったり、一人でつぶやいたことはありませんか?

また、“先生は今日、私にハローも云わなかった… ”と腹を立てたことはありませんか?

仏法僧を信じるとは、先ずこのような簡単なことから始まるのです。

お寺という所は、道場なのです。念仏道場なのですから、仏さまのみ教えに鍛えられるところなのです。仏さまにお礼を申し上げに行く所なのです。私と仏さまとの唯二人のご縁の場なのです。聴聞するとは、まさにこのことであり私が聞かせて頂くのです。

②「怠」とは、怠けるということですが、これは一般に云う仕事を怠けるという意味だけではなく、〈らしさ〉を失う時を怠けるというのです。

念仏者らしく、仏教徒らしくということですが、特にここでは〈女らしさ〉が欠けていて女性のやさしい心・温かく人を限りなく赦す心の広さを無くすことを〈怠ける〉というのです。もちろん仏道の「苦行」に体力的についていけないということです。

③「瞋」は、いつも誰かを憎まずにはいられないこと、誰かの悪口を云わないと落ち着かない厄介な性質のことです。

④「恨」とは、生きている間じゅう人を妬み・やきもちをやくことです。

⑤「怨」は、死んでからも恨むことを忘れないことです。今生で云うなら、何かをされたら必ず恨み仕返しをしてやるという根性です。

以上の五つが、「女人五障」と呼ばれるものです。

もちろんこの五障は男にもあてはまりますが、ここでは、この五障を一つも直す気もなく、直ぐ“あなたは一体どうなんです?”と逆に攻撃する態度を嫌うのです。

すなわち、他人には厳しく自分には甘い人、無反省な人を五障の人といい、この人は仏道修行にはあわず、〈悟り〉には程遠い人なのです。

仏教には何故、この五障を女性と結びつかせたかは私は知りません。以前にも述べましたようにこの五障は、誰でもが持っているものであり、特に女性だけが行う罪でもないように私には思われます。

たまたま『法華経』に【女人五障】と書かれていますので、ここに取り上げてみました。(このお答えは、どうも皆さまの方がよくご存じのようです、これより深く追求いたしません…)

この「女人五障」にご不満のある方は、『法華経』に云ってください。

私は、あくまで女性の味方ですので、この次はこういった「女人五障」が救われる道はないものかと思考しておきますので…。(次号に続く)

合掌    宮地

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