Orange County Buddhist Church
平生業成
山岡鉄舟(一八三六~一八八八)は、幕末の偉人の一人であり、彼は政治家として日本の歴史に残る人物であった。特に江戸幕府の末期、勝海舟と共に官幕両軍に入り、西郷隆盛を説得、徳川家安泰を得させたことは彼の大きな功績であった。
彼は武道も達人であり、書にも秀でたものがあった。また彼は禅を修め、仏教の経典にも深い人であった。故に鉄舟については多くのエピソードが残されている。
その中でも私には、山岡鉄舟の臨終の時の話が強く印象に残っている。それは次のような話である。
鉄舟は、重い病で床に臥せっていた。彼はいよいよ自分の臨終が近いと感じた時、家族、親戚を集め、当時落語界で名人と言われた三遊亭円朝を自分の病床まで呼び落語を語らせた。鉄舟は自分が間もなくこの世を去らねばならないことを知りながら、いつもと変わらぬ態度でその落語を聞いた。さすが名人円朝も感きわまって、しばしば絶句し、落語が続けられなかったという。
その翌朝、鉄舟は「着替えをする」と言い妻に着物を持ってこさせた。奥さんはいつもの着物を持ってきたが、彼は「それではない」と言い、ハッと気がついた奥さんは用意してあった白衣を出し、主人に着せたのである。
鉄舟は、白衣を着て『金剛般若経』を懐に入れ、数珠を持って「私は先に逝く、みんな体を大切にするように」と言い、座禅をしたまま静かに亡くなったそうである。
私はこの鉄舟の臨終の姿は、大変立派であり私も死ぬ時はこうでありたいと思ったが・・・、考えてみると私は決して鉄舟のように座禅をくみながら死の瞬間を迎えることは出来ないと思う。
さて、宗祖親鸞聖人のご臨終はどのようなものだったのであろう。
聖人のご臨終の場合には、聖人の一番末っ子の息女であられる覚信尼さまが傍についておられた。
当時仏教では、特に天台・禅宗などでは高僧・名僧といった方が亡くなられた時は、空に紫雲がたなびき、異香薫じ、天の奉楽が聞こえてくるか、何か変わったことが起こるものと信じられていた。あるいわ素晴らしい辞世の句を残して逝くものとされていた。
聖人の末娘覚信尼さまは、父聖人が亡くなられる時は、当然紫雲を呼ぶか、あるいわ何か辞世の句を残してくれるものと期待されていた・・・。(この事については、続きとして別号で書かせていただきます)
聖人の臨終のようすは、覚如上人の作である【親鸞伝絵の下・第六段】(一二九五年)にこう書かれている。
「聖人弘長二歳、壬戌仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。それよりこのかた、口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし、こうして同き第八日丑の刻頭北面西右脇に臥したまいてついに念仏の息たえおわんぬ時に頽齢九旬にみちたもう・・・」
現代文にすると
「聖人は、弘長二年(一二六二年)の冬にお体の調子をくずされた。それより床に臥されたままであった。病床の聖人は一切世間のことは口にされず、ただ仏さまのご恩をおもいながらお念仏がいつも口から出ていました。
それから八日目、頭を北にし、お顔を西(お浄土)に向け、右脇を下にされ、すなわちお釈迦さまの涅槃(臨終)のお姿と同じにされ、今まで口から流れていたお念仏が急に絶えた時が聖人のご往生でありました。」
これは、親鸞聖人のご臨終のお姿であります。誠に自然であり、無理にかまえたところのない聖人らしいご往生のお姿であると思われる。
平生業成(この人生において仏さまに成る因をいただく)、すなわち信心正因のみ教えを実践され、あとは他力本願に全ておまかせになられた念仏往生の道を私たちに残していって下さったのである。
さて、皆さまは山岡鉄舟のような臨終の姿か、親鸞さまのご往生のお姿か、どちらの方が身近に感じますか。ゆっくり、いや急いで考えてみて下さい。
今月の法話の大切な点は、臨終のようすによって悟りを得た人とか、悟りを得ていない人とかを判定しようということではありません。
私たち〈死の縁まちまち〉であります。死に方が大切であるとは言っておりません。
「平生業成」「信心正因」という浄土真宗の大切なみ教えの要をお伝え出来ればと思ったからなのであります。
合 掌 宮地
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