Orange County Buddhist Church

私は茶道のことは素人であります。しかし今月はこのお茶の話から入らなければならないことをお許しいただきます。

茶道と云えば、まず利休の名前があがりますが、その利休の次男である少庵の系統を継いだのが、宗旦であります。

この宗旦を茶人達は、乞食宗旦と陰で呼んでいたのです。その訳は、宗旦は派手に成ってきた茶道と反対に、大変質素なものを好んだ人であったからです。当時茶器やその他の道具は高価なものがもてはやされたのですが、宗旦はそう云った派手で高価なものは一切使わなかったのです。

その宗旦の三男が宗左という方で、この宗左の系統が今日の表千家になっているのです。また宗旦の四男の宗室という方が裏千家の流派をおこすようになるのです。

宗旦の次男の宗守という方が官休庵と云う、武者小路千家をおこすのです。

その他、宗旦の弟子山田宗編という人がおられ宗編流を創立されるのである。

少しややこしく成りましたので、まとめてみましょう。

利休

   長男 道安・・弟子桑山左近
         (大名・禅僧)
  
次男 少庵・・弟子 宗旦
     
宗旦 
        
次男 宗守
    (武者小路千家を起こす)
         
三男 宗左
    (表千家を起こす)
        
四男  宗室
    (裏千家を起こす)
   弟子  宗編
    (宗編流を起こす)

利休の長男の道安は何事においても大きなスケールのものを好みました。次男の少庵は大変神経のするどい人で、静かな人物と伝えられております。

当時の将軍は太閤秀吉でした。彼は利休ととても懇意(晩年は変わりますが)でした。ご承知のように将軍秀吉は大変派手で、大きなことをするのが好きな人でした。

ある日、秀吉は奈良の東大寺の大仏殿を囲ってお茶会を催すことを利休にもちかけました。秀吉のその茶会があまりに大きな企画でしたので、私(利休)の好みではないと思い一度はこの話をことわりました。

ところが秀吉はなかなか頑固なところがありましたので、この企画をどうしても実行したいと思い、再び利休にたずねました。利休は「それなら私の長男、道安は大きな事をするのが得意だから彼と相談するように」と進言したそうです。その茶事は盛大に行われ、無事に終わったそうです。

この道安の弟子に、桑山左近という人がいました。彼は茶道に優れた人でありましたが、又禅をも深く修めた人でもありました。左近は禅の心とお茶の道を巧く取り合わせた日本の庭に大変力をそそいだ人物です。特に彼の「石」を見る目はするどいものがあり、茶室の庭に石を置くことにかけては今日でも彼におよぶものは無いとさえ云われております。彼は

「石」を心の底から愛した人と云えましょう。

 私はこの光輪の今月号で、この桑山左近について、紀野一義先生の「大悲風の如く」という本の中に大変興味深いお話を読ませていただきましたのでご紹介させていただきます。

『ある日、左近は非常に立派な石を手に入れました。門から茶室に入っていく庭を露地といいますが、その露地の入口にその石を置いたのです。ある日、茶人が左近のお茶に招かれました。その茶人が露地の入口に置いてある石にすぐ気がつき「あの露地の入口に置かれてある石はまことに立派でお見事な石です」とほめたたえました。

自分でわざわざ遠い所までこの石を何回と見に行き、高いお金を出して買い、やっとここまで運ばせ、考えて考えてやっとここに置いた石をこの茶人はほめてくれたのですから、当然喜び、自慢のひとつでも云いたいところでしょう。あるいは心にも無い謙遜の言葉が出るところでしょう。

しかし左近は喜こばなかったのです。その茶人が帰るなりすぐその石を裏庭へ移してしまったのです。

左近にとっては「石」というもはどんなに立派な石であっても目立つようなことがあってはそれは邪道であると考えた人なのです。

露地の庭石というものは目立ないで、しかもそこをスッと通ってくるあいだに気持ちが静まり、浄められるということが大切な目的であったのです。左近は、石は人の心を落ち着かせ、人に静かな力を与え、尚かつなごやかな雰囲気をもって自然と調和をするのが、石のはたらきであると云うのです』

この精神は仏教のこころと茶道のこころを見事に調和させたもと云えましょう。

親鸞聖人の自然法爾のみ教えは、この石のこころからも味わえるのです。

今日の思想は自己主張主義がまかり通っています。自己を強く表に出さないと世間に負ける、競争に負けると深く信じきっていますが、はたして本当にそうだろうかと、考えなければならない時に来ているのではないでしょうか。             

      合 掌    宮地


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