Orange County Buddhist Church

因 果

釈尊の悟りの内容の一つに「因果」の法則があります。全てのものには原因があり、それが縁によって変わり、そこから結果となって現れてくるというのが「因縁果」の根本原理であります。

釈尊は永い間、修行・学問をされついに大悟されるのであるが、成道後初めて修行比丘に説法されました。

すなわち初転法輪では、この「因縁果」の説を中心として四諦八正道を説法されたのです。

さて、この因果の法則をわかりやすく説明すれば、次のように大変簡単なものであります。

「善因善果・悪因悪果」、すなわち善いことをすれば必ず善い結果が還ってくる、悪いことをすれば必ず悪い結果となってもどって来るということです。

釈尊のこのお言葉は『無量寿経』に

 「善人は善を行いて、楽より楽に入り、明より明に入る
    悪人は悪を行いて、苦より苦に入りて冥に入る」

とあります。

簡単に言いえば、善いことをすれば極楽に行ける。悪いことをすれば地獄に行ということです。

これは、特に日本の江戸時代に『三宝絵』『霊異記』を通し、非常に道徳的なものとして捉えられてきたからです。皆さんからは、おそらくこんなことは子供でも知っていることだとお叱りを受けるかもしれません。

しかし、この簡単な教法を釈尊は承知でありながら初転法輪では、五人の比丘僧(高い学問・苦行を積んだ方々)にあえてお説きになられたということは、ただ単に道徳的な戒めではなく、もっともっと深い哲学的な教えを示されたことは当然でありましょう。

この善悪の問題は、インド・中国を経て日本に入り、法然上人・親鸞聖人などの浄土教思想の中で一段と明白にされてきたのですが、この点については、のちほど別の機会で述べることにしましょう。

次に、私たちが一般に考える因果の法則は、全てがこの私の生きている人生の間だけのことと考えますと大きな間違いであり、不合理な法則であります。

因果の法則を考える時には必ず時世、いわゆる過去世・現世・未来世の三世を併せて考えるべきであります。釈尊はそのことを『法句経』に

 「善果未だ熟せざる間
    善人も尚ほ悪に遭ふ
    善果の熟する時に至れば
    善人は善に遭ふ
    悪果未だ熟せざる間
    悪人も尚ほ善に遭ふ
    悪果の熟する時に至らば
    悪人は悪に遭ふ」

とあります。

私たちのまわりにはよく「あの人は家庭的でもなく、社会人としてもいまひとつ…、宗教など無縁の人なのに、どうしてあの様にラッキーなことが起こるんでしょう」また逆に「あの人は家庭的にも社会人としても立派な方であり、宗教的にも随分尽力されておられるのにどうしてああ不幸が起こるのでしょう」こういった疑問にこの『法句経』は、ずばり答えています。

すなわち、まだ善果が熟していないが、何時かきっと 必ず善い結果があらわれて来ます。また逆に悪因を起こした人は、その悪が熟した時(来世かもしれない)必ず地獄に入ると説かれるのであります。悪い事をしても死んだら全てが消えてしまうという人生なら、こんな気楽で無責任な人生はないでしょう。

私たちがこの世の人生で行った事、言ったこと、考えた事の因はすべて現世か来世で必ず果となって受けていかなければならないのです。

釈尊の二大弟子である阿難尊者と目蓮尊者にまつわる面白い話があります。

目蓮は、お釈迦さまの多くの弟子のうちで最も美男でありました。阿難は、またその逆で最も醜男でありました。

二人は連れだって托鉢に出て、川のほとりを歩いていました。すると川の側で芋を洗っている若くて美しい娘がいました。目蓮は托鉢を乞うためにその娘に近づいて行くと、娘はさも嬉そうににっこり笑って洗っていた芋を手盛りいっぱい供養しました。

次に阿難が行くと今度は、娘は血相をかえて、阿難をめがけて拾い上げた石を投げつけました。

二人はこの出来事をお釈迦様に申し上げて、その訳をたずねました。お釈迦様は次の様に答えられました。

『その娘は、目蓮が美男だから芋を供養し、阿難が醜男だから石を投げたのではない。

目蓮と阿難はその娘さんとこの世で始めて会ったと思っているだろうが、実は人間になる以前、過去の世界で会っているのだ。

二人ともまだ子供であった頃、仲良しの二人が遊んでいるとすぐ近くの広場に大きな犬が眠っていた。

いたずら好きの阿難が面白半分に石を拾ってその犬に投げつけた。犬はあわてて逃げ出した。阿難がもう一度石を投げようとした時、目蓮は「可哀そうだ、止めておけ…」と云って石を投げるのをやめさせた。

その後、お前たちはまた人間の世界に生まれ、その犬も人間の世界を得て人間に転生した。

わかるだろう。石を投げた者が石を投げられ、親切にした者が供養をうけた』

いろいろと形や姿に変化はあっても生命は人間以前(過去世)からつながっているとお釈迦様は説明されたのです。

今月のこの因果説は「宿業」の問題で間違って教えられてきたところの前世の業が果となり、全てを諦めさせるための話ではないこともおことわりしておきます。

現在学会では「仏説善悪因果経」のことが多く論じられ、宿業・宿命論と併せて差別の問題などがよく論じられていますが、この紙面ではそういった道徳的教訓から差別的言説を話そうとしたのではありませんのでご了解して頂きたいと思います。

仏教の因果説は、何も私たちの人生で起こった事を諦めさせることを教えているのではなく、例えば「十悪業」の苦から免れるための「修復」の善行として

(一)宗教的善行
(二)道徳的善行
(三)社会的善行

があります。これによって善悪の因果が分かれ行くことが述べられているのであります。

ここに仏教の救いである『転』という思想が生まれてくるのであります。

罪悪深重の凡夫が仏に成ることが出来るという仏教の真髄が見えて来ます。

      合掌     宮 地

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