Orange County Buddhist Church
本願寺第十一代門主 顕如上人 最終回
昨年の十一月号から皆さまに読んでいただきました「顕如上人」は、二〇〇七年の一月号を最終回として、ここに載せさせていただきます。法話は、十二月号の続きです。
石山戦争終結後、本願寺と信長、秀吉との間では互いに仇敵の感情を払うべく和親的交渉が進められました。
先ず、秀吉からは本願寺に寺地寄進が行われ、大坂天満宮にあった南北五町という広大な土地を本願寺に贈ったのです。顕如上人は、これを受け秀吉との和平を固め本願寺復興に立ち上がられ、ますます精進されるのです。
天正十三年に本願寺は、大坂は天満に阿弥陀堂・御影堂の完成を見たのです。これを後に「天満本願寺」と呼ぶようになったのです。
秀吉は、大坂ならびに京都の市街整備計画を立てました。その計画では、本願寺は京都の地がふさわしいと考えたのです。その後、秀吉と顕如上人との話し合いが度々行われ遂に、本願寺は天満から京都に移ることになったのです。
この時の秀吉は、すでに天下を制しつつありその力は大きく、本願寺移転に対して京都の土地選定・工事費の一部負債などを約束しました。
顕如上人は、もともと身体が強健ではありませんでしたので、継職いらい絶えず発生する困難な事態には、心身ともに疲労されたようです。
上人はついに体調を崩され、有馬にて湯治に入られるのです。
その後、上人の病状は一進一退を続けるのですが、子息である三男阿茶(准如上人)がこの年(天正十四年)に十一歳に達せられ、上人の病状をふまえて、ついに本願寺を准如上人に譲られたのです。時は天正十五年十二月六日でありました。
門主職を退かれた上人でありましたが、本願寺整備・他寺院との交際・秀吉との和平維持などで多忙を極められていました。天正十九年(一五九一)顕如上人は、遂に本願寺を現在の場所(七条堀川)に移されるのです。
これは、丁度今から四百十五年前にあたります。天満本願寺は、中之島の興正寺に与えられました。
上人は、全精魂を「京都本願寺」建立にそそがれるのです。
全国に広がる真宗系の坊主衆・門徒衆の大協力を得て、歴史に残る速さの工事に恵まれ、広大な土地の北側に「御影堂」・南側に「阿弥陀堂」が完成(現在はこの逆で、北側には阿弥陀堂、南側に御影堂ですが、これは後に本願寺の火災によって建て替えかれたからであります)したのです。
この他に「勅使門」(天皇家お出入りの門) ・鐘楼・対面所も建てられました。
本願寺の周りには町も出来、多くの人々が住みはじめ座・商い屋・お茶所で賑わったのです。
これらの土地は全て本願寺のものでありました。当時は、町ひとつが本願寺の中にあったといえましょう。
天正二十年(一五九二)十一月二十日顕如上人は、勤行中に脳卒中でお倒れになり、その四日後ついに往生されたのです。宗主在職を三十九年間という長い間つとめられたのでした。
顕如上人の院号は「信楽院」であり、まさにその名の通り常に手から数珠をはなすことなく、医者が脈をとる間もお念仏を称え仏恩を感謝されたといわれます。
上人は、内に在っては身を持すること極めて堅く、信を喜ぶこと限りない毎日であられましたが、一方外には戦国の群雄あい争う烈風吹きすさび、特に石山戦争という苦難の事態に直面してよく教団を守りその発展に尽力されたのでありました。
一回から三回までの資料は、本願寺より出版された「図録顕如上人余芳」を参考にさせていただきました。
合掌 宮 地
January 2007
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