Orange County Buddhist Church

明けまして
   おめでとうございます

 昨年中は、皆さま方に大変お世話になり、有り難とう御座いました。今年もよろしくお願い申し上げます。

今年は「羊」の年に当たります。中国の干支入りカレンダーの本を戴き、読んでおりましたら、羊の年は、緊張する時期と、平穏で静かな時期とがあると書かれておりました。政治的にも、経済界も平穏な年でありますよう念ずる次第です。

二〇〇三年のこの「光輪」の元旦号は、浄土真宗で最も大切な「聞即信」すなわち聴聞ということについてお話ししたいと思います。仏教の教典のなかに『華厳経』というお経があります。そのなかの「入法界品」という章に出てくる善財童子のお話は大変有名なので、皆さまもよくご存じだと思いますがここで簡単にご紹介いたしましょう。

善財童子は子供のお坊さまです。彼は子供でありながら、村から町へと旅を続け、自分の問いである、仏教の悟り・信心とは何か、と言うことをあらゆる先生(師又は善智識)に尋ねて行くという物語であります。

童子はこの旅で、あの村、この町に居られる、五十三人の善知識に出会うのですが、どの師に対しても同じ質問をしています。すなわち「悟り・信心とは何か」と聞き、師より胸に響く返事が返ってくるとしばらくその師のもとで学び修行を積み、そして次の師を求めて旅に出るのであります。

さて、善財童子が色々と尋ね歩いて訪れたと云う、仏教の善智識とはどんな方々であったのでしょうか?

一般に考えますと修行を積まれた高僧、あるいは学問を究めた有僧の方々のように思いますが、実はそういった偉人ではなく、船頭・名もない尼僧・無名の僧・男の子・女の子・医者・沙門(寺、弟子、名、財を持たない僧)・乞食・売春婦・婆羅門(仏教の高僧)など色とりどりの人を師として学んだのであります。

童子が師に問うたのは唯「悟り」とは何かということでありました。

童子が尋ねた師からは色々な答えが返ってきたことと思います。彼は師から返ってきた一つ一つの答えを大事に胸の奥にしまっていきました。

ここにある例をご紹介いたしましょう。

獅子奮進比丘尼に会って童子は問います「仏とはなにか」?

比丘尼の答えは「仏仏というも、それは汚れ」という短い返事でした。

これは大変難しい答えですが、二つの意味があると思います。

まず第一に、仏、仏といって仏に執着するなということなのでしょう。仏さまという方を我々の浅い知識でいくら解釈しようとしても、とても無駄なことで仏さまのお慈悲と智慧に直接貴方の心と命が触れなければ、仏さまを観る事は出来ないと言われるのです。仏とはどんな方であろうかと言うはからいから離れるということです。そして仏という言葉に執着されずに自然に仏さまと一つになることです。

宗祖親鸞聖人は、ここを「自然法爾」の信仰と教えて下さっています。また絶対他力の信仰ともおさとし下さいました。

第二は、「悟り」とか「仏さま」は我々人間の浅はかな知恵と言葉では説明が出来るものではないということをこの獅子奮進比丘尼は言わんとしたのでしょう。

仏さまのことを説明すればするほど本当の仏さまから離れたものに成ってしまうということなのです。親鸞聖人は仏さまを「不可称・不可説・不可思議」とお説き下さいました。これは「仏さまとかお念仏は私たちの言葉では言い表せないものなのです」と言われました(歎異抄)

では、聖人は仏さまの存在を信じなかったのでしょうか?聖人の心と命のなかに仏さまは確実におられたのであります。ある人はこう言いました、

「信仰とは姿なき姿を見
 声なき声を聞くということである」

この他に、善財童子といろいろな先生との問答は沢山ありますが今月は紙面の都合で紹介することが出来ませんが、善財童子の物語が教えてくれている結論をここにまとめておきましょう。

一、童子にとっては全ての人々が、いや生きとし生けるものが師(先生、善智識)であり、仏さまのお使いである。

二,求道者、聞法者の心がまえとして、いつも素直な心と姿勢で、子供のような純粋な気持ちになって法に向わなければならない。

三,仏法者には、これで充分修めた、信心を得た、あるいは悟ったということはあり得ないのです。

悟りとか、信心を領解するとは求道、聴聞のプロセスでめぐり遇えるということなのです。

私たちにとって大切なことはこの説教は難しいとか、あの先生の話なら聞きに行こうという私の「はからい」がある間は、まず仏さまにはお会いできないのではないでしょうか。

 「われ以外は みな師である」
       亀井勝一郎

                合 掌  宮地

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