Orange County Buddhist Church
明けまして
おめでとうございます
昨年中は、みなさまに大変お世話になり、有り難うございました。今年もよろしくお願いします。
私は、仏教会は丁度「船」にたとえられると思います。この船は難度海という海を進み、目的地のお浄土まで私たちを運んでくれます。私たちの船を「オレンジ丸」と名付けましょう。しかしこのオレンジ丸が進むにはエネルギーが要ります。このエネルギーはメンバー一人ひとりのご理解とご協力の力だと思います。どうぞ 2002 年もよろしくお願い致します。
昨年(2001年)は私たちが住むアメリカにとって激動の年となりました。何と云っても、ニューヨークの同時テロ爆破事件は、私たちの記憶から忘れ去ることのできない出来事でした。アメリカは今「新しい戦争」と名付けて争いに突入しました。
20世紀・21世紀と世界中で色々な国が「戦争」を引き起こしてきました。戦争は悪い事と全人類は云いますが、何故戦争が絶えないのでしょうか。
そう言ったことから私は 2002 年の最初の「光輪」に「仏教と平和」と題してメッセージをいたしました。
「仏教と世界平和」
今、世界は近代科学の急激な発展にともない、人間の心の問題を忘れてきました。科学万能主義をあこがれ、それを手に入れたところに幸せがあると思い追跡してきました。しかし近代科学文明は人間の生活を便利にしてきましたが、その反面「闘争」が絶えない世界にも成ってきました。今日の戦争はハイテク兵器とコンピューターを使った科学兵器の戦争です。こう云った戦争が世界のいたるところで続いています。又それぞれの国内でも色々な闘争が繰りひろげられています。現代の人間は「自然」にも「闘争」を挑み自然破壊を恐ろしい程の早さで進めてきたのです。そして各家庭や友人との間においてもこの「闘争」が繰り返し起こっています。
しかし一方では、今日ほど「平和」をさけぶ時代もないのです。私たち仏教徒は今こそ「平和」とは何か、人類にとって真の「繁栄」とは何かを一人ひとりが考えなければならない時だと思われます。
仏教の素晴らしい思想のなかに「無我」を実践する、菩薩行の教えがあります。
菩薩行とは、自ら仏の悟りに至り、全てのものに幸せと平和の世界を築こうと「行」を積むことであります。
インドの古語、サンスクリット語で「平和」をシャーンティで表現します。これは「寂静」(じゃくじょう)と訳されます。寂静とはこの上もない静けさを言いますが、もう少し浄土教的に表現すれば、「無我」の行を云います。すなわち、自己を捨て他を思いやる心であります。それは「闘い取る」とか「奪い取る」という闘争のない静かな世界であります。仏教の言葉で言う「自他一如」であります。この菩薩の精神と衆生の平和の願いは、阿弥陀如来さまの願いであります。それは四十八願に誓われたものであります。『大無量寿経』の第一願から第四願までがそれであります。
第一願から第四願までの内容は、「無三悪趣の願」・「不更悪趣の願」・「無有好醜の願」でありますが、これらは衆生の現実に対応する仏さまがこの世の平和を念じておられるものであります。
ここではこれらの「願文」についての解釈はふれていきませんが、要するにこの四つの願は、如来の願いを菩薩の姿として顕示されたものと私は受け止めさせていただきます。それは菩薩の許し合い、譲り合う心を私たちに教えているのです。
今日まで私たちは全てを「闘い取る」・「奪い取る」ことが強い生き方と称賛してきました。故に自我をいつも主張し、自己中心的考え方がまかり通り、悪いことは全て他が悪いという転換が理屈をつけて正当化される社会になったと云えます。
日本の美しい行為に「遠慮」をするという言葉があります。遠慮の「遠」は遠いと云うことであります。「慮」は心に思うと云うことであります。すなわち遠くの人のことを忘れないで思うということであります。
例えばここに饅頭があるとします。皆で美味しく頂きましたが、ひとつだけ残りました。皆はこの美味しい饅頭を食べたいのですが手を出しません。これを遠慮と云うのですが、はたして悪いことなのでしょうか。饅頭を残して置くということは、もし遠くから少し遅れてここに来る人がいるならば、その人にもこの美味しい饅頭を食べていただこうとする「おもいやり」が遠慮の意味であります。それを遅れてきた人が悪い、いやもう誰も来ないだろうと判断し、その一つ残った饅頭を食べてしまうということは、ただ自分だけが満足すればよいという「自我」ではないでしょうか。
しかし母親の愛とは、これよりももっと深く、自分は食べなくても帰ってくる我が子にこの一つしかない饅頭を残しておいてやろうというやさしさがあります。これを「慮」と云います。すなわち「愛」であり、「慈悲」の心に通じるものであるのです。
今日、この「遠慮」ということも間違って受け止められ、何かネガティブシンキング(消極的)と悪いように伝わっています。いやそれは文化・習慣の違いとかたずけられているが果たしてそうでしょうか。
「平和」と「遠慮」とはどんな関係があるのかとお叱りを受けそうですが、ここで私が云いたいのは、本当の「平和」は仏教の精神の「菩薩」、いや仏さまの大慈悲のお心にあるのだと言うことを再認識していただくと共に、日常の小さいことから実践して行こうという呼びかけなのであります。
世界平和なんてとても私一人で出来るものではないと、それこそネガティブシンキング(消極的)にならず、今すぐ私達一人ひとりから始めていくことが大切なのであります。
その第一歩として「闘い取る」ことが強くて、奪い取った者が勝ちという態度から、仏教の「無我」の菩薩行を少しでも身近なところから実践していこうと云う呼びかけであります。
私たちはそう云った問いかけに対してすぐ、「それでは貴方は、それがどれほど実践できますか?」と相手に質問するのが常でありますが、その前に、まず私から、私のまわりから実践することが大切なのではないでしょうか。
合 掌 宮地