Orange County Buddhist Church

善悪について

宗祖親鸞聖人は『正像末和讃』に次のように記されています。

〝悪性さらにやめがたし
  こころは蛇蝎のごとくなり

 修善の雑毒なるゆへに

  虚仮の行とぞなづけたる ″

私という人間は、身も心も凡夫であり、常に五逆・十悪を犯し続けている身であります。

心は丁度、蛇や蠍のように三毒の煩悩をいつも持っています。

いかなる善行を重ねてもそこにはいつも自我にとらわれたものであり、私のやることはどれもこれも純粋・真実なる善はないのであります。と聖人は、述懐されたのです。

次に、聖人は『正像末和讃』に

〝外儀のすがたはひとごとに
  賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪偽おほきゆへ
  姧詐ももはし身にみてり ″

私は、人の前では善人ぶり、賢くふるまいますが、私の心の中は妬み・貪り・嫉妬などでうずまいており、とてもはずかしいものであります。これも聖人の反省であります。

浄土真宗のみ教えは、この罪悪深重の私にたってこそ、はじめて如来の本願がわかってくるものなのです。

さて、この聖人の自己凝視は、私たちが一般に言う道徳的善悪の基準ではないのです。

はっきりしておきたいことは、「善悪」と言った場合、次の二つの基準で計ることが出来るのです。

一つには、道徳的善悪
二つには、宗教的善悪

宗祖親鸞聖人が「悪人」と言われる時は、この宗教的基準にたった善悪であります。

道徳的善悪は、啓示的と申しますか、上から与えかれた決まりでありそれに従えば基準は善とし、従わなければ悪とするのです。故に道徳・戒律・規則などは、常に「裁き」が必要になってくるのです。

この「裁き」のお話は、また別の機会に譲ります。

道徳と人間との関係について、こんな面白い例え話があります。

[竹筒に入れたる蛇のごとし]

竹の木は、真っ直ぐにのびています。蛇はくねくねと体を曲げて動いています。その蛇を竹筒に入れると、蛇は体を真っ直ぐにし動きはじめます。

そこでこの蛇は、体が真っ直ぐになったと思い外へ出てみるとまた、もとの姿でくねくね体を曲げて動いたというのです。

この蛇は、私の本性であります。そして、竹筒は道徳を示しています。

道徳は、人と人との間で成り立っていますから、常に人の目があります。人の目は、また世間の目であります。

私は、人前では表面で善人面をしています。すなわち、竹の中の私は真っ直ぐであります。

浄土真宗の念仏行者は、蛇自身の本性を見せていただくみ教えでありますから、私の本性はくねくね曲がっているのです。

阿弥陀仏の光明は、竹の中より竹の外に一層輝きます。

くねくね曲がった心は、蛇褐のごとき私だからこそ光明を照らして下さるのです。

弥陀の本願のお心は

〝そのまま来いよ ″

のお呼び声であります。

罪悪深重の私が、救いとられていく信仰の世界ではないでしょうか。くねくね曲がった私は蛇ですが、その曲がった心に仏性があったことを発見するのです。

宗祖親鸞聖人は、そのことを『浄土和讃』に

〝信心よろこぶそのひとを
   如来とひとしとときたまふ
  大信心は仏性なり
   仏性すなわち如来なり ″

とお慶びになられたのであります。

泥凡夫の私すなわち、蛇のごとく曲がった本性の私だからこそ道徳や戒律では救われないのです。

阿弥陀さまの光明に照らされることによって、私の曲がった心の中にも仏性があり、仏に成る因がそこにあることに気づかされることが、浄土真宗の救いなのです。

    参考文献
     雑誌信仰、一九九五年四月号
       日種真隆・明解提言より 

合掌   宮 地

February 2007

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