Orange County Buddhist Church

  心のふるさと

 『三世の衆生の帰命の念も
  正覚の一念のかへり、
  十方の有情の称念の心も
  正覚の一念にかへる、
  さらに機において一称一念も
  とどまることなし』

       「安心決定抄」

   三世=過去・現在・未来
  帰命の念=お念仏の目的
   
十方=宇宙のすみずみまで
  有情=生きとし生けるもの
  機=衆生・人間

 私たち人間が仏さまを信じるということ、信心が決定するということ、何故お念仏を称えるのか…、こういった極あたりまえの問いをついついあたりまえに過ごしてしまい、それらの本当の目的を考え直すことが少ないのではないでしょうか。

しかし、これらの問いに簡単に答えることは不可能なことだとわかっていますが、私の考えるところを述べさせていただきます。

仏教は、仏に成る教えであります。この凡夫が仏の位に入らせて頂くという、何と有り難い教えではないでしょうか。

この私の命が仏の国、お浄土に還って行くことが浄土真宗では仏に成らせていただくことでありましょう。ここにお念仏の目的があります。

阿弥陀仏とその浄土を私の心のふるさととして、この人生で味あわせていただく時、この人生が大変意味深く成ってくるのであります。

この世界(此岸)の全てのものが仮の宿であると教えて下さっているのです。そしていつかはこの仮の宿の人生から旅立って往かねばならない。誰しも死が訪れたら「野辺のおくり」として肉親や知人によって葬送される、人々はこの旅立ちにおいて一体どこへ向かって行くのでしょうか。

死ねば全てが終わり、ただ灰になるのみ。死後のことまで考える余裕も必要もない。

だれ一人としてあの世とやらから帰って来た者はないのに、どうしてそんな次の世のことが信じられるものかもしこのようにお考えなら、本当に命の無駄づかいのような気がします。「人身受け難し 今己に受く・・・」の三帰依文の御文にも、別に何も感動が起こらないのです。

人生とはそんな簡単なものではありません。もちろん我々には仕事があり、家庭があり、色々な責任があります。子供を育てるだけでも人生の目的があると云えましょう。しかし一匹の小さな動物でも、ゴキブリでさえも子を産み必死で子を育てあげます。人間としてこの尊い命を授けられたことは、何かもっともっと深い意味があるのではないでしょうか。

宗祖親鸞聖人は、約二十年間比叡山で学問・修行をされました。聖人は幼い頃より、常に[絶対永遠なるもの]は一体何であろう、[生死いづべき道]はどこにあるのかとお考えになっておられました。

その答えが[お念仏であり、弥陀の本願であり、お浄土の真の意味でありました]と領解されたのです。この長い間の問いに明確に心の解答となったのが、お念仏のみ教えでありました。故に聖人のお念仏は常に御恩報謝の称名となってあらわれて下さるのです。

『教行信証・行巻』に
[借問す、家卿は何処にある]とお書きになっておられます。聖人は、私たちにまでもご親切に「あなたが臨終の一息が絶断」と言って下さっておられるのです。それは貴方がこの世での旅を終えた時、あなたは帰る処を知っていますか、帰り道を知っていますかと問いかけておられるのです。

念仏者は皆、西方極楽浄土に還らせていただくのです。ここは倶会一処の世界ですから、今は亡き肉親やなつかしい人にも再び遇えることの出来る処なのです。

お浄土は、この私の生命の本体が最後に落ち着くところなのであります。このように確信された時、初めて死を越えることが出来るのです。“もう心配はいらない、私にはあたたかい大きな故郷があった、そしてこの苦しかった人生の旅を終えれば、還る処がある”

あ‥、何と素晴らしいことではありませんか。

合 掌     宮地

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