Orange County Buddhist Church

案じられている私

 人間の心の置きどころに二つあります。第一は「案じる者」と、第二は「案じられている者」です。しかし私自身を深く正直にふり返ってみますと、私はいつも第一の「案じる者」の立場に立っていることに気ずかされます。

我々は、家族のことを案じ、妻は夫のことを案じ、夫は妻子のことを案じ、親戚のことを案じる。その他に仕事のこと、友人のこと、学校その他、色々な団体のこと、経済・政治のこと、国家のこと等色々と多くの事を案じている。

しかし私たちがこれらの色々なことを案じていると言うことは「何々の為」に私はこれほど案じていると言うことになります。

さて、この「何々の為」に案じていると言うことは、なかなかのクセものなのです。

よくよく考えてみると、「何々の為」というのは、結局はこの「私」の為の場合が多いようです。これは仏教では「自我」の立場に入ります。私は子供の為にこれほど案じ、尽くしてやったのに・・・、とよく申しますが、そこには「私」というものがいつも陰にかくれていることを見逃してはなりません。

道徳的な立場で「人のことを案じる、人々の為に何かをする」は大変良いことであり、大切なことであります。ここではそれらをも否定しているのではありません。仏教の教えはそこからさらにもう一歩人間の心を見つめようとするもであります。すなわち八正道の最初にあります「正見」を大切にするからであります。

「正見」という鏡に照らし合わせてこのことを見ますと、私たちは夫のことをこれ程案じていると云いますが、それは結局「自分」が入っているのです。私たちは純粋に人の為に案じ、人の為に尽くせるのだるうかと言う疑問を持つことが大切なのです。何故ならば、人の為に案じ、尽くすということは、かならず自己の限界に突き当たるからなのです。例えば貧しい人の為にお金を上げたいと思っても、自分の全財産をなげだすことは出来ないのです。又人の為に命がけで尽くすと言っても、私の命までささげることは出来ないのです。

純粋に、何々の為に案じたり、尽くすと云うことは大変難しいことに気が付くのです。

次に、第二の「案じられている私」という立場から考えて見ましょう。

この「私」を、家族の者が、親戚の者が、友人が、職場の者が、近所の人が、社会の人々が、そして国が、いつも案じ、尽くして下さっているということに目ざめたとき、そこには素晴らしい、そして暖かい人生と、真の幸福が得られるでしょう。

 ここにこんなほほえましい話があります。

松波のおじいちゃんは長年浄土真宗のお坊さまとして、街に自坊の住職をつとめていましたが、そのお寺を長男にゆずり田舎で隠居にはいっておられました。

ある日、長男夫婦から電話がはいり「来週から一週間、どうしても妻と共に京都の本山に出向かなければならないので、その間この寺で二人の子供達をみながら留守番をして欲しい」と、依頼がありました。おじいさん夫婦はしばらく孫たちにも会っていないので、これは良い機会だと「すぐ行くよ」と返事をしました。おじいさん夫婦は大変幸せでした。何故なら孫は目の中に入れても痛くないくらい可愛いからです。ですから孫たちと遊んでやろう、これもしてやろう、あれもしてやろうと心が弾みました。やがてその日がやって来ました。孫たちも、おじいさん夫婦も久しぶりの再会で大はしゃぎです。二人の孫は、しばらく見ない間に大きくなり、ほんの少し前までよちよちと歩いていたのに、こんなに背も高くなりイタズラになりおったわいと感心させられました。

留守番が始まって二・三日までは、お互いにあれやこれやと相手になって楽しんでいましたが、四・五日目にはこのお寺にお葬式も入り少し忙しくなりました。孫たちは相変わらず元気です。おじいさんは少し面倒になり、疲れてきました。六日目、二人の孫たちがおじいさんの回りでゲームをしたり大きい声を上げて遊んでいました。おじいさんの腹の虫の居所が悪かったのでしょうか、この孫たちに大声で、「子供は風の子、表で遊びなさい」と云いつけました。それでも子供たちは表に出て行きません。おじいさんはついに堪忍袋の緒を切らし、さっきの二倍の大声で、「外は天気も良い、表で遊べ、出て行きなさい」と叱りつけました。それでも孫たちは外に出ようとしません。おばあさんが心配そうにその成り行きを見ていました。そして孫たちとおじいさんの間に入りやさしく孫たちに「まだ時間も早い、天気も良い、近所の子供たちも表で遊んでいるのに、どうしておじいちゃんの云うことを聞いて外で遊ばないの」と聞きました。孫たちは口をそろえて「ママたちが京都に行く前に、おじいちゃんもおばあちゃんも血圧が高いし、おじいちゃんは特に喘息をもっておられるから、咳き込むと大変苦しまれるのでその時は水を持ってきてあげなさい。そして背中をさすってあげるのよ。と云って出かけたから、僕たちはおじいちゃんのそばから離れられへんのや」と泣きながらこたえました。おじいさんは、その孫たちの言葉で急に何か目覚める世界にはいったそうです。

「私はこれほどの素晴らしい説教を今まで聞いたことはなかった。」と云いながらおばあさんに「わしが死んだら、孫たちはわしに抱きついて泣いてくれるだろうなぁー、ばあさんやわしは今回孫たちを看に来たとばかり思っておったが、実はちがっておった。この長男の家族皆がこの私を看とってくれたのだなぁー、有り難いのー、もったいないのー」と云って、おじいちゃんは目に涙を浮かべていたそうです。

仏法はどこでも、誰からでもいただけるものであります。この長老のご住職は、幼い孫から尊いみ教えをいただいたのです。

 仏法に出会うということは、私の人生に対する姿勢、見方が正しい方向に転じさせられ「力」に遇うことなのです一人。この事に気がつきますと、私で生きているのではない、生きとし生けるものによってこの私の命が支えられている。あらゆるご縁によって私の人生があることに目覚めさせられます。そこから自然に「おかげさま」の感謝の念が出て参ります。それがお念仏なのです。

案じられているのはこの今だけではなく遠い昔から仏法に出会えよ、お念仏を喜んでくれよ、と願われている私だったと気がつくことが大切なのです。

親鸞聖人はここのところを「遠く宿縁を慶べ」と言ってくださいました。そして「親鸞一人のためなり」と味われたのです。

私はいつも他の人を案じていたが、いや、そうではなかったこの私が「全てのものから案じられていた」のでした。又私は何々の為にと思って尽くしてきたが、よくよく考えると私の為でありましたと反省させられた時、本当の幸せな人生になるのではないでしょうか

  「温もりを生きる」雑賀正晃著・百華苑出版

参考にさせていただきました。                            合 掌  宮地


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