Orange County Buddhist Church
「来いよ・わかっているぞ」
今日のこのお話は、日本のお寺の日曜学校の子供達とご住職のお話です。
先生は子供達に「皆さん、如来さまがお手をこう上げておいでになる。あの手を上げておいでになるのは何で上げていらっしゃるか、誰か知っていますか?」と質問されました。
子供の一人が「先生、仏さまは来いよ、来いよとおっしゃっているのです」と答えました。
先生は「うん成る程ね。来いよ、来いよとおっしゃっておられるお姿ですね。よく知っていますね」と云われました。
すると他の子供が手を上げて「先生、如来さまが手を上げておられるのは仏さまが〝わかっているぞ〟とおっしゃっておられるのです」と答えました。
さて、この二つの子供達の答えをどう思われますか?
そうです。この二人の子供達の答えは二つとも正しいのです。
初めの子供の「来いよ、来いよとおっしゃっておられる」の答えは、仏教の昔からの教えを忠実に答えています。おそらくこの子供は、先生が教室でされたお話しを聞いて覚えていたのです。
さて、二番目の子供の「仏さまのあの手のお姿は、わかっているぞ、わかっているぞとおっしゃっておられる」の答えは間違っているのでしょうか?
いいえそうではありません。この子供は、仏さまと直に心と心が通った経験を持っているのです。
それは例えば、その子供が何か正しいことをしても認められなかったり、あるいは友達から疑われたことが本当に悔しかったのかもしれません、また心から嬉しかった事があり、それらを仏さまにお話したのかも知れません。
とにかくこの子供は仏さまと直接お話をしたご縁があったからこそ、その自分のお味わいを先生に答えたのでしょう。
さてこの子供と仏さまとの関係のように、この私を本当に理解してくれる方がいるでしょうか。
人間と人間との関係・友達との関係・親子の間でも本当の私をわかって もらうことは難しいことです。
特に他人は、言葉と心とは別々の場合が多いのです。お世辞を云いながら心は三毒の剣を磨き、同情の裏には心の笑いがある場合があります。
しかし私達念仏者は、有り難いことに阿弥陀如来さまが一緒にいてくださいます。私が苦しい時、淋しい時、嬉しい時、楽しい時に心から一緒(一如)になって「わかっているぞ」とご承知下さるのです。
皆さま、今度仏さまを拝む時よーく手を見てください。
ほら、仏さまがにっこり笑って『わかっているぞ、心配するな』と言っておられる声が聞こえてくるでしょう。
今月号のご法話は、「信仰」三月号雑賀師のものを参考にさせていただきました。
合掌 宮地
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